最終更新日:2024年9月5日

                                              2020年11月9日 掲載開始。

 近世の岩手県内の陸前高田市から沿岸部を北に向かい、洋野町に至るいわゆる”浜街道(盛岡南部領では浜北通/浜辺道)”の詳細なルートの道筋を調査し、すべて踏査を行い、記録します。今は誰も知らない,古には普通に使われていた沢や山の名前もできるだけ未来に残します

 さらに、浜街道から山間、西方面などに繋ぐ脇街道なども調査が進むに伴い、少しづつ掲載したいと思います。

  LINKより宮古街道、大槌(和山)街道など他の街道の記録もぜひご覧ください。

 

 (スマフォでは編集通りみれないと思いますので、ぜひパソコンで大きな画面でご覧ください。 

タカマサ記念 三陸近世街道研究会 山野目辰味/山野目尊政 作成・編

問い合わせ先::tatsu-y@basil.ocn.ne.jp
(内容へのご意見、旧街道の情報などは歓迎いたします,批判等は遠慮してください)

 


  


はじめに

 忘れ去られようとしている古の先人、我々の祖先が日々生活を営み、その日常生活に密接に関係していた”旧道・旧街道”。現在地図を見ると。またそこに生活する人々の中からも、それは付随する地名、小沢名等とともに消え去ろうとしています。

 その一つ近世の”浜”街道が精確に地図にプロットされている資料は残念ながらみあたりません。どこにあったの?と思っても簡単にそれがわかる資料はほとんどありません。また街道を正確に記憶している古老も少なくなっています。
  そこで、自分が生まれ育った地域を中心に過去の資料調査、さらに現在の武器でもあるインターネットから調べられる、たとえばGoogle earth,各地図資料などを駆使し、さらにそれを基礎に現地の綿密な踏査、住民の方々のお話の聴取などを行い、消え去ろうとしている旧道、その周囲の関連地名を残すサイトを作成しました。

 地名や沢などの名前は最低限江戸時代後期の盛岡藩の武士の記録である、三閉伊路程記と三閉伊日記などに記録されるものを残すためにも土地土地で聞き込みを行い確認し記録しました。興味ある方は自己の調査の糧にしていただければ幸いです。


 対象としている旧道・街道は近世の1)三陸浜街道・浜邊道=浜北通(岩手県内)、2)宮古街道・新道(2つある)、3)宮古~岩泉街道(中北通(道))、4)小国遠野街道 5)小本街道 等です。 それらからの脇街道なども調査範囲で記録しました。おいおい、釜石・大槌(和山)街道(3ルート)、盛街道・江刺往還なども調査踏査したいと思っています。
   浜街道は基本的に”三閉伊路程記(以下路程記)”三閉伊日記(以下日記)”を元に街道を追いかけ、記載される地名なども聞き込みなどで確認をしています。それを助ける現代の資料として 、Google earth-pro, 地理院標準地図、大日本陸地測量部の大正2~7年発行測地地図、米軍の昭和23年前後撮影の航空写真、さらに埼玉大学谷先生作成の”今昔マップon the web”、宮崎県作成の”ひなたGIS”を3次元的に使用しました。その他使用した資料は”参考資料”をご覧ください。
  生まれ育った地域の古の先祖がどのように故郷を作ってくれたか知ることが自己のアイデンティティーを形成し、故郷を誇りに思う心を養うことになると思い、またそうなってほしいとの願いが、この調査の真の目的と考えています。。
 
  なお、”浜街道”という呼び名は明治期以降のようで、仙台領では”気仙道”"浜南部道”、南部領では”濱辺道”などのいろいろの呼び名があったようです。宮古通の代官所の文書などでは、宮古から北の浜街道筋は、”浜北通(道)”とされていたようです。
  先行する県内の旧街道研究として昭和57年の岩手県教育委員会歴史の道調査報告書(各街道分)がありますが、そこで比定・疑定された道筋とは違う部分が多々存在し、ここでは独自の調査に基づいた実地踏査により旧街道を実際に確認し(破壊され確認不能の場所もありますが)そのルートを詳細で正確な道筋にこだわり比定したもので、そこでの違いは前者を否定するものではありません。むしろ補完し,精度を増すものと考えており、記録の進化と考えています。

  浜街道に関する県教委の「浜街道」の調査報告書は、そのまえがきで”3泊4日”程度でのものとのことで、そのあとがきでも、後の再調査が必要と述べられています。この記録は、まさしくこの”追跡・補完”と個人的に考えています(県教育委員会は現時点で再調査の予定なしとのことです(問いあわせへの回答))。同報告書の”むすび(p96)”で「農道や林業用の道路として利用されているところは兎も角、大半は雑草に覆われた廃道となっているところが殊に北部に多い。それらの道は現在踏査することは困難な状況にある」と述べられていますが、踏査していくと、近世の街道とはいえ、本格的な車社会を迎えるつい最近(概ね半世紀程度前=車社会が本格的に到来する前)まで、生活道路として使用され続けていた道が多く、結構保存状態は良好な所が多く、完全な消滅、あるいは歩行困難な藪化している所は非常に少ないと実感します。しかしながら今後保全していくことがとても重要と思います。そのためにはそこを歩くことが最も効果的かな、と考えます。
  なお、旧街道(の可能性が非常に高い)かどうかの判断は明治期の赤線道路、道端の石碑、切通し(掘割)、道そのものなどの工法、昔からの言い伝え等々を判断材料にし、実際に踏査し判断しました。特に重要な参考資料としたのは大日本陸地測量部の明治末期から大正2~5年頃に測地された三陸沿岸各所の5万分の1の地図で、ここに記載されている道は近世から存在する道であることが多いからです。注意点は明治期に新たに作られた道や森林伐採のための作業道を、近世から存在する道と勘違いしないようにしなければならない、ということです。また、林野の工事機械などによる伐採が非常に多く、このための作業道が旧道が消滅したりする場所は非常に多くみられ、旧道の保存に配慮がなされないことはとても残念に思います。

 ここでの詳細なルート比定が違う、こうではないか、との情報をお持ちの方はお知らせいただくと感謝です。この記録もより正確な事実に訂正されるところがあればそのようになるべきと思います。

 掲載した地図の中の書き込みは実際の踏査時のその場所などの状況・状態、疑義・疑問などを示しました。

 

  また石碑は街道脇に建てられ、旅人に様々な信仰を共有し、思いを込めて祈ってもらう当時の一つの信仰の形でした。この街道のトレースとともに、主に江戸期に建立された石碑の存在位置をマーキングしてありますが、この記録は”街道”の調査報告であり、石碑の内容の詳細に関しては記載しておりません。その詳細を知りたい方は”宮古市の石碑”などの各自治体などの石碑の記録をご覧ください。

 なお、街道であることを道脇などに立っている石碑を重要な要素として考えておりますが、石碑は街道沿いにのみ建てられる

わけではなく、神社や寺院、その他の場所にも建てられることも多く、石碑を街道判断の主要素とすることは危険があり、参考所見程度に考慮していることを付け加えます。

 

 掲載資料は、調査進展とともに、逐次更新を行います。

 

LINKも含め、国土地理院地図をベースとして使用したが、加工は筆者によった。


資料、写真は今後逐次追加していきますのでお楽しみに。
(文章が統一性がなかったりすることなどは、笑ってお許しください。
また、地図上の字が小さいことも編集の都合上やむを得ない部分があり、画面の拡大でご覧いただければと思います。)



(すべての著作権は筆者に属します)