5,普代村普代から野田村

1)普代から、力持

 太田名部坂を下り普代川縁におりた街道は、路程記の記述によれば三丁ほどで川を渡る橋に到達するとなっています。しかし橋があった場所は、現地でどなたに聞いても不明で、記録も残っていません。おそらく現在の普代橋のあたりにあったと想像されます。橋を渡り旧道は普代の部落内の道を行ったかどうかも記録ではっきりしたものがなく不明な点が多いですが、伊能大図、三閉伊道中図では普代川を北に渡った後、茂市川の東岸の道が街道で、そこを北上するように描かれています。そして北ノ股神社脇を通り、今は普代トンネルと国道のため消滅している”上堂坂”を上り、普代トンネルあたりから旧国道のあるあたりを通り、力持に至ります。普代トンネル北口の西側の旧国道の所からトンネル口付近に下る旧道が藪の中に残っており(力持坂)、下ると深渡(不行道)沢の脇にある石碑群に達します。そこを国道下をくぐり、力持の部落に入ります。力持から沢沿いに、北上し国道に吸収された状態で白井との境の峠まで行きます。県教委報告書「浜街道」では力持北の山を往き、現国道の西側山の上に移行し、その部分から旧国道を旧街道に比定していますが、路程記の記述からも峠から力持に下る沢に流れ込む、小沢を渡りつつ歩くことから、南北に流れる沢沿い、国道に沿って白井境の峠に至っていると考えられます。国道と沢沿いを踏査するも、旧道跡はみあたりませんでした。

 今後普代川を北から橋を渡って三丁ほどで太田名部坂の登り口(路程記)があるとの記述から、太田名部坂普代側降り口から三丁ほどで橋を渡った所から旧街道があるはずで、この点を確認する必要があります。

A):茂市川東岸の旧街道、

太田名部坂を下り、普代川と茂市川を渡り、この道を北の股に北上します。当然普代川を渡り集落内に向かう道もあったと思います。川の向こうが普代村中心部です。この川には堤防がなく、道と同じ高さで畑が続いています。

C):”上堂坂”入り口、

北ノ股神社前を通過した旧道は舗装道路から左に分かれ、普代トンネル付近を山と山の間に向かい、力持に到達します。そこまでは旧国道となっており、旧道の姿は消滅しています。

D-2)力持の石碑群、

車の向こう側の坂が”力持坂”で坂の上が旧国道です。旧道はこの部分から石碑まで残っています。石碑群、撮影場所に不行道沢が流れています。

B):北ノ股神社、

鳥居前を旧街道は北上します。

この境内に多くの石碑が存在します。

 

D-1):力持までの峠筋、

ここは旧国道が建設され、旧道があった所は削平されて旧道の面影は消えています。道の向こう側が力持です。

E):力持、

石碑群から来た道が手前の砂利道で、十字路の向こう側の道を沢に沿って北上していきます。しかし国道に至ると旧道は消滅します。国道に吸収されたと考えます。右に行くと海です。


2)白井から堀内

 力持から沢沿いに峠に向け登り、やがて峠を越すと白井となります。その坂道には何本もの沢が西側から流れ込みます。

坂の峠を過ぎ、国道から右に入る旧道を往くと西からくる卯子酉道と合流する十文字でしたが、現在卯子酉道は痕跡程度しか残っていません。

そこには路傍に寂しく庚申塔が立っています。そこを過ぎ左にカーブしていき、30m程度で、民家の入り口そばを北に叢を下る所が旧道です。そこから平地の旧道は、廃車置き場とか、加工場などの施設で概ね数百メートル、跡を残しません。しかし赤線道路の標柱が、旧道があったことを教えてくれます。さらに北に行くと旧道は民家の庭などを通って行きます。そのあたりは路程記では“うそ安堵”と地名が記されており、当初土地勘のない筆者は、どこかを探すのにかなり苦労していました。しかし方言で発音し何回もウソ安堵を唱えていると”おさんど”と聞こえ、長途であることに気づきました。こうした例は結構多くあります。路程記の筆者=盛岡の武士、も閉伊の言葉の発音をなんとか聞き取って、聞こえた通りに字を当てたのだと思います。一説に長途は元々、鵜鳥神社の”御参道”ではなかったか、と言われます。長途の北端は自動車道工事で完全に破壊され、澤に下る坂の入り口も消滅しました。しかし澤の部落から、沢川を挟んで、坂を上がり八坂神社までの旧道は、旧道そのものの姿のままよく残っていて、往時がよく偲べます。坂を上がった峠の頂上に八坂神社があり、南北の集落がよく見渡せます。そこからの旧道の少しづつ曲りつつ行く旧道を含めた風景は建物こそ近代化していますが、近世の部落の風景が十分想像できる景色です。八坂神社を下って、小さくうねりつつ街道をくだり、三鉄堀内駅の付近で国道に合流します。

A-1):白井の十文字、

南から北に行く街道に、小屋手前の左から卯子酉道が合流し、右手には海辺へ行く道に続く。

A-3):A-1)の道を50m程度進むとそこから道端を降りてゆく旧道がかろうじて残っている。この先は街道は消滅するが、

明治期の赤線道路として印が打たれていて、道跡がわかる。

C):長途の峠から澤に下る坂。

比較的良好な状態で残っている。

E):八坂神社から眺める堀内、

峠にある八坂神社の石碑越しに旧道とその周囲の堀内を臨む。野田湾も望み、なかなかの眺望である。左手の丘の向こうは、野田となる。

A-2):民家右手からの卯子酉道が撮影場所の十文字に合流。その場所に庚申塔が佇む。

卯子酉道は国道45号線で寸断されている。

B):A-3)から500m程度北上したところに残っている長途の民家の間に道があるが、その右手に一段高くなったところは旧道跡である。ここから峠を越えて、澤の部落に道は続く。

D):澤から沢川越しに、堀内側の坂を登る細い旧道をみる。坂の上(ダンナ峠)は切通されているが、左手の松林に八坂神社があり、石碑群も残されている。昔の旧道とその周囲の雰囲気がよく伝わる場所の一つである。

F):堀内部落の旧街道脇のお地蔵様と石碑から旧道坂が国道に合流する方向と野田湾が青く輝く。国道合流部の500mもない所が野田村との境となる。部落内の旧道は舗装はされているが、道の走り方、幅など昔のままであろうと想像される。


3)下安家から野田村・玉川

 堀内駅の上で国道45号が山を削って走っている所は当然昔道はなく、堀内の部落から国道に降りて来た旧道は、堀内駅方面に国道を斜めに横切って下り、国道が削った山の突端を回り、国道に向かって登り、三鉄のトンネルが国道の真下にある所からさらに山を登って行き、少し行くと

亀割石のある所に至ります。旧道はまずまず保存されています。その亀割石から海の中にある別の亀割石を結んだせんが、堀内村と下安家村の

境とのことですが、海側のそれは残念ながら見通せませんでした。そこを30-40m行くと、国道で削り取られた切通しの崖で、旧道は消滅します。古に旧道は”下安家坂”としてここから、今の下安家の港の所に九十九折れで降りたと、地元の方の話でした。そこから川沿いに上流に向かい、図の場所で中州に橋をわたりました。2016年台風10号水害まで川の中に橋梁の基礎部分が残っていたとのことでした。その大橋を中州に渡り、小橋を渡って北岸に渡ります。そこから一気にもう一つの”下安家坂”を100m程度の登ります。坂の麓には庚申塔が2基寂しく立っておりました。坂を上り詰めるとそこに小石を積んだサイノカミがあります。サイノカミからは比較的平坦な旧道を北に向かいます。一般道となり舗装されている旧道を1km程度行くと、下り坂(銭神坂)となりその途中に銭神の一里塚が一基のみ道端に残っています。塚の道路と反対側が旧道で

民家の畑などとなっている所を通り、旧道が現れるところが国道の削った西側の崖上を往き、堀内沢に達し、沢を渡るために上流方向に回り込むあたりで三鉄のトンネルと線路で、これ以上行けませんでした。国道沿いに旧道は同定することはできないまま、玉川の南端に達します。

A-1):堀内と下安家境:

堀内駅から国道45号線を越えた三鉄トンネルの交差する所から国道西側の山に藪を漕いで上がって行くところが旧道になります。

B):亀割石の旧道から下安家港:

長根が左に低くなったあたりから旧道は現在の国道あたりを九折れの坂となって漁港付近に降りて来た、とのことです(黄線は事実を元とした想像)。かなりの難所です。

C-2):左手の看板ところが下安家坂の入り口で、向こうの山の上に約100m折れながら登ります。登るとサイノカミがあります。

C-4);下安家坂峠のサイノカミ

木の根元に小石が大量に積み上げられています。

D-2):銭神一里塚から続く旧道は時に使用されるようで、堀内沢に向かって国道45号線の西側崖の上に残っている。

A-2):亀割石?と思われる石の所から、海の亀割石を見ようとするが、残念!  ここが下安家の港に降りる”下安家坂”の頂上となる。

C-1)安家川の中州:左から橋が中州にかかっていたとのことです。中州を奥の方に歩き、小さな橋で北岸に渡り、住宅があるあたりから下安家坂にかかります。

C-3)下安家坂:上り口に庚申塔があり、一気に旧坂を折れつつ登ります。

D-1)銭神一里塚:下安家坂峠から1km程度北上するとひとつ残存する銭神の一里塚があります。東塚とされ、旧道は舗装路ではなく、塚の左と考えられます。


4)野田玉川

 堀内沢から海岸線の国道に沿って玉川に旧道は到達するように、県教委はその報告書で述べている。そこには三鉄の線路が並行して走っており、東側は断崖になるので、旧道はほぼ消滅したように思われる。しかし浜山の住民の方に話を聞くと、”昔は浜山から今の国道の山手側を歩いた、ということを聞いた”とのことで、そのラインは調査を要すると考える。路程記の”ねい水”と考えられる沢に達するとその周辺の集落が”石角”とのことを住民の方に確認した。石角から未確認であるが”二の坂”を玉川河口に下る。現在は下った道は玉川をわたり北側に立ちはだかる岩壁を削り取って向こう岸に渡るが、昔は岩壁に阻まれ川沿いに河口に向かい、河口の橋を西行屋敷の下で北岸に渡る(明治期と思われる写真が残っている)。そこには”屏風岩”という名物の岩があったが、漁港の建設とともに破砕されたとのことである。旧道は河口の段丘の角にある西行屋敷を北に回り込むように、海べりにでる。そこからは海岸の砂浜が旧街道となり野田村中心部の十府ヶ浦に向かう。しかし砂浜の現状をみると、

当時は砂浜が広いと考えても、海が荒れれば、歩行困難となったことは確かではないかと思われる。

A):玉川地内に入り国道を右折するあたりが石角で、玉川から登ってくる写真の坂がおそらく”二の坂”と考えられる。右手の沢(おそらく”ねい水”)に沿って玉川に下る。

C):松林がある西行屋敷の下に徒橋があり、ここを渡って海べりの砂浜にでた。そこから十府ヶ浦までその砂浜が旧道で、そこを歩いたという。砂浜が広かったかもしれないが、海が荒れれば歩行困難となったことは容易に想像がつく。

B):二の坂を玉川べりに下ると、川向うに現在切通しで道があるが、昔はこの切通しはない。川沿いに右手の河口に向かい、河口付近の西行屋敷下で浜辺の砂浜にでる。そこに昔は塩釜があったとのこと。

D):この砂浜が古の街道であった。陸地内はさして高い山はなく、なぜ陸地内に道を作らなかったか、不思議ではある。(ほんとうは陸側にっ道があった?)その理由をぜひ知りたいが、今となっては・・・。


5)野田村

  玉川から海岸線の砂浜を北上した旧街道は、十府ヶ浦の”大須賀”、現在の三日市場あたりの松林から海岸線を離れて、泉澤川の河口付近を渡河して曲渡橋に至ります。そこから愛宕神社や海蔵院の鎮座している野田村中心に至った旧道はその前で右折し北上し、宇部川を渡ります川の北岸に渡ると旧道は右折します。橋を渡りまっすぐ往く道は最低大正初頭までは存在しなかったことは大正年間のこの地方初めての近代地図をみれば

一目瞭然です。橋を渡り右折した旧道はすぐに左折、そしてまた左折し、北西方向の小松の辻方向に向かいます

A):十府ヶ浦手前の丘が海にせり出した所。ここも海岸が街道になっていた。よほど当時の砂浜が、今と比較し広かったのでしょう。

C):明内川に近づいても松林が消滅したため、同じ風景が続く。かろうじて旧道跡に道が残っていた。

E):鳥居前を右折した旧道は向こうに見える野田橋を越え、すぐ

右にまがる。実際はこの写真の道も旧道ではなく、この左側に消滅した旧道があった。

B):十府ヶ浦の松林を、海岸街道から抜けて、明内川にかかる曲渡橋の方向に向かう。しかし津波で松林は失われ、かろうじて残った道は舗装され、そこを北に向かう。

D)曲渡橋:懐かしい橋の姿はなく、”橋”という姿も感じないまま通り過ぎてします。古の西行法師の歌に詠まれ、その世界では、よく知られた橋ですが・・・。真正面に大きな鳥居が見え、そこを右に折れて行きます。


6)野田村北部から久慈市境

 愛宕神社の大鳥居を北に右折すると古は野田橋までの道とは西側にずれて旧道があり、昔は野田橋と呼んだか不明ですが、橋を宇部川北岸に

渡ります。直進する道は明治以前は存在せず、橋を渡り旧道はすぐに右折し少し行って左折します。また少し行きさらに左折し、そこから現在も存在する村道を北西にむかい、国道を横切ります。田の中をまっすぐ進むと久慈線の線路土手にあたり、そこで旧道は消滅していますが、昔はまっすぐ進み、“小松の辻”に至ります。そこは西からくる宇部道、さらに東からくる久喜道が合流します。ここには小松屋という酒屋があり、久慈方面などから来る人などで賑わったといいますが、現在小松屋はありません。その辻には電柱にしばりつけられた庚申塔があります。また道標もありましたが移設されたといいます。辻から50-60mほど北上すると新山一里塚がなんとか保存されています。この旧道は野田村と久慈市の境界となっていて、そこをさらに北進し、Y字路の左の未舗装の草の生えた農道となっている旧道を往きます。その先が”ドエ坂”になっていて少し下りとなります。

A-1):左手の野田橋を北に渡り、この右折する道を旧道は行きます。

B-1):国道を斜めに横切って行くと田畑の中を進み、三鉄の線路で道は寸断され、線路の北側に農道として姿を現し、小松の辻に達します。

B-3)新山一里塚、左に一基見えますが、右の木立の向こうにもう一基残っています(竹やぶで確認不能)。ここは右が野田村、左が久慈市の境となっています。

C-2):ドエ坂、草地の道を手前にくだり、旧道は北上しますが、左手にあるおそらく久喜方面に行く道との分岐に庚申塔が草生して立っています。

A-2):A-1の道を半円を描くように北を向くと中央に続く道が旧道で国道45号線を斜めに突っ切って往きます。

B-2):小松の辻、手前から来た旧道はまっすぐに北上します。左手は宇部、右は久喜への道です。電柱に庚申塔が縛り付けられています。なんとかならないのでしょうか?まっすぐ行った木立付近が新山一里塚となります。

C-1):一里塚から200m程度北上するとY字路があります。そこを左(家の左側)に行き草地の農道を往くのが旧道です。


次項に続きます。