2,ブナ峠から山田町・大槌町境
1)田名部から窓坂
田名部の古碑群の脇を通り、沢沿いに緩い坂を徐々に上っていくと、林道化した道の脇に田名部の一里塚が見えます。かなり高さは低くなっていますが、両塚保存されています。さらに谷、沢筋の道を登ってブナ峠に向かいます。峠頂上付近では国道が旧道を削る形で、沢筋の旧道は消滅します。旧道峠付近は湿地となっていて、国道と離れて南の谷筋を南下します。その湿地の杉林斜面に石碑がひっそりと立っていて、今も時々供物をあげる方があるようです。ブナ峠は近世(江戸時代)に宮古通と大槌通の境界となっていました。私有地となった南に向かう谷合を南下していくと、とある会社の敷地を過ぎ、下りにさしかかると旧道を拡張したと思われるダートの道が、牧場跡地で開けた斜面を下って行きます。その坂の上から南を眺めると山田湾と大島が俯瞰でき、きれいな景色を見ることができます。さらに谷と沢に沿って南下すると、牧場のゲートあとを通過し、台風水害でガレ場と化した林道となった旧道を通って行きます。坂上から700mほど行くと自動車道がすぐそばを通っている所にでますが、そこに馬頭観音などの2基の石碑がここが旧街道であったことを示し草生して立っています。100m行くと江戸期の墓石群があり、そこから窓坂という坂を登って間木戸に向かって下って行きます。窓坂はほぼ旧道は林道化されていますが、途中で道の脇の藪の中に旧街道跡と思われる道跡が残っている所もあります。正確には旧道と林道はずれがありますが、ほぼ同じルートを往きます。
左側の点線のルートは浜街道が近世に整備される前に主に使われていたとされる海辺を通らず、大槌街道の宮沢峠から豊間根に至る街道です。
幕府巡見使がここを通ったとされる文献がありますが、私が巡見使の南部領を歩くルートを調べた限り、最初の巡見時のみ沿岸部を歩いているようですが、この道を巡見使が通ったとの記録は見つかりませんでした。沿岸部の巡見は初回のみで、二回目以降は沿岸部は巡見路に入っていません。しかし近世以前においても重要な街道であったことは間違いありません。
A-1)田名部一里塚、
田名部石碑群から道を進むと、
田名部一里塚(西塚はかなり平坦化)に到達します。ここでは旧道と同じく、塚の間を拡幅された道は通っています。ここから徐々にブナ峠にむけて、沢筋を登って行きます。
B-1):ブナ峠、国道は右手を行きますが、旧道はこのあたり消滅し不明です。ここの斜面の下は湿地で、歩行は困難です。その湿地の脇の斜面に石碑がひっそりとおそらく移設ない昔の建立された場所に立っています。
C):土地所有会社に許可を得て、下り坂となる部分から南を臨むと、山田湾が見え、手を食えられた旧道は杉の木の左の坂を下って行きます。牧場の跡の草地のようでこの下りは草地となっています。
E):山谷への分岐から登り坂を登りますがここから”窓坂”と呼ばれます。概ね旧道は現在の林道状の道と重なっていると思われますが、道脇を見てゆくと時に林道わきに旧道跡がみられる場所があります。坂を下って行くと窓坂道祖神が迎えてくれます。そこから間木戸は間もなくです。
A-2):一里塚からブナ峠に向かう旧道。林の中、右手の沢筋を登って行きます。
B-2):ブナ峠南側の旧道跡、
湿地の石碑から少し南に行くと
このあたりを所有する会社の道路脇に旧道跡と思われるものが残っています。さらに少し南下すると、道跡は消滅します。
D):三陸道わきの旧道、
牧草地を下り、狭い谷合をさらに南行250mほどで旧道は三陸道の脇にでます。そこに馬頭観音など石碑が2基草生して立っています。ここから100mほどいくと、山谷への別れになります。
2)間木戸から山田
窓坂道祖神から窓坂を下って行くと、谷筋から開けた場所にでるが、そこに自動車道建設前は間木戸一里塚が左右ともに存在していた。
しかし自動車道工事により撤去され、消滅し現在はない。こうしたあらたな建設工事などを行う場合、古からの文化財の保存を行うように設計していくのが自動車道路を作る側の、責任ではなであろうか。消滅したものは二度と元に戻ることはなく、一つの過去を地域の人々は失うことになるのである。そこから東の山に沿って旧道は南下する。現在の柳沢地内を地図のような経路で関口川を橋で渡河する。川の南には大沢への追分があった。その分岐点に釜谷洞石碑群という追分碑を含む石碑群があったが、津波後そこには見当たらなくなった。失われたのであろうか?
大杉神社脇を下山田地内を山田の中心に向けて旧道は往く。途中から西に寺小路という道が分岐し、そこに龍昌寺がある。
A):窓坂を下ると、間木戸の一里塚があった所は残念ながら?自動車道が造成され一里塚は消滅した。その皆には山に添い旧道は残っており、時々石碑が道端に残っている。
C-1):遠くの山の右裾を間木戸から来る旧道は、関口川(関屋沢)をこのあたりで、橋をわたり下山田村に入る。このあたりの旧道は津波後の区画整理などで消滅し跡形もない。
D)山田村の中心部を街道は新たに設定された国道45号線と概ね一致しつつ南に向かいます。しかしながら国道は昔のままの街道とは正確には一致しません。
B):旧道脇の石碑群。山田インターに入る道の北側脇に残る旧道の数か所に石碑が木に埋もれている。
C-2):橋を渡り大沢への道の分岐(追分)を南下し大杉神社の横(鳥居のところ)を通り、右の山すそを通り、山田の中心部に入る。
3)境田から織笠
山田町内を海岸に沿って南下する街道は、境田にはいり、織笠村との境である、三本小松=板坂を越、細浦地内を入海となっていた海岸に沿って往きます。入海の南側の丘にあたるところに鯨峠に向かう本道と、四十八坂を越える道の追分となります。そこに絵入り道標がありました。
本道=鯨道は追分から西に向かいますがそのあたりの旧道は道や住宅の造成で消滅しています。そこから織笠神社前を龍泉寺に向かいますが、その手前に霊堂一里塚がその間を通る旧道拡幅により一部削除されていますが、残っています。龍泉寺前を過ぎ、霊堂、猿神と抜け、轟木橋を越、
馬指野に向け南下していきます。
織笠で別れた四十八坂道は、丘を越え(サイノカミ坂)、織笠川を渡河します。渡河したところに石碑群が津波にも負けずに損傷はしているものの佇み、皆を見守っているようです。川を渡ると草木の山に添い、道は東に向かい草木坂(鷺の巣坂)を登り船越村に入ります。
近世はじめは、一里塚も築造された鯨道が本道として利用されたようですが、結構険しい地形の連続、特に鯨峠から辺地ヶ沢峠の間は鯨峠、二の鯨、一の鯨と3つの峠を1km弱の間に越えなければなりません。このためそれ程の難所は比較的少ない、海岸に沿う四十八坂道が主なルートとして使用されるようになったとのことです。皮肉なことに、難所の鯨道はよく残っており、四十八坂道は国道、鉄道、自動車道などに破壊されてしまい、残る街道はほとんどありません。
A):三本小松(板坂):境田の国道を板坂を登り、三本小松の切通しを臨みます。昔は切通しは細く、またもう少し上の方にあり、織笠村の細浦に下ります。
C):霊堂一里塚、織笠の追分から織笠神社前を通り南下すると龍泉寺の100mあまり手前に一里塚が一部道拡張のため削除されるも、残っています。左手の林の中にも西塚が残っています。
E-1):サイノカミ坂、
地元では”セーノカミザガ”と言います。追分から四十八坂道を南に下るとまず、この坂を越、織笠川をわたります。舗装、拡幅あるものの、道の走り方など旧道の雰囲気が残ります。
B):板坂の織笠側下り、
昔はここは入海になっていて、
国道から右に入る道が旧道で丘の縁を回り込むように左向こうに見える住宅街の麓まで往きます。そこが鯨道と四十八坂道の追分になっており、絵入り道標がありました。
D):馬指野橋、旧道はここをわたり馬指野にはいり、萩野原から鯨峠へと向かいます。
E-2):織笠川南岸石碑群、
十八坂道追分からサイノカミ坂を登って下ると織笠の集落に入り、織笠川を渡る。その橋のあった川の南岸に津波にも負けずに石碑群が立っています。そこから旧道は東に行き草木坂を
上がって船越に入ります。
4)轟木から鯨峠
本道である”鯨(峠)道”の織笠から馬指野、また脇街道であっても、鯨道に比較し難所が少ないため主街道なみに使用された”四十八坂道”の船越の一部を示します。
(2021年4月踏査)
四十八坂道は別途述べたいと思います。
轟木から馬指野に入った本道(鯨道)は舗装され拡幅された旧道そのものを南下していきます。馬指野の部落内の道も旧道の雰囲気そのままにうねうねととても”いい感じ”の道のままで、やがて道の東側に鳥居がある祠=鯨山神社と、道の両側に多くの石碑が並んだところを通過します。
少し行くと舗装は終わり砂利道となり、その道は馬指野川の東側に移り南下して行きます。萩野原地内のY字路を左に曲がり徐々に登りにかかります。この部分では林道化した道は旧道とは違ったルートを往くようで、南下して行くと右手に広がる松林の中に萩野原一里塚が二基残っています。
一里塚付近ではその塚の間を通る旧道は不明です。さらに松林内を南下してゆくと松林の切れるあたりから旧道が出現します。やがて林道と右折して切通しを往く旧道のY字路に至り、切通しを往くのが旧道です。その切通しはどこにも記述・記録されていませんが、機械掘りではなく驚くことにお城の堀のように手掘りで深さ10m前後で長さは約100m程度うねうね続いて一つの長根を切通しています。江戸期前期の仕事量とすれば
このくらい凄い作業量の道を見たことはありません。この切通しが手付かずで残っているのは奇跡みたいなことと思えます。ぜひ保存せねばなりません。切通しを過ぎると左に曲がり沢筋の崖上を往きます。沢を渡り、林の中、沢脇を登って行きますが、道跡はところどころ失なわれたり出現したりしつつ、昔のままの沢谷筋を峠に向かいます。峠に近づくとS字状の坂をあがり、尾根を切通した”窓坂”を抜けて、ひとつ西側の沢筋にでます。そこを登って行くと横たわる尾根を切通した鯨峠に到達します。ここが山田町と大槌町との境です。大槌側をみると非常にきつい下り坂が藪の中を下って行きます。この道は寛永二十年(1643)山田湾に2回入港し、捉えられたブレスケンス号のオランダ人が盛岡に向かい護送された”オランダ道(街道)”とも呼ばれます。 鯨道は大槌と山田の間に一里塚が3か所築造されていて、浜街道の本道に違いがないと考えられますが、大槌-山田間で3か所の峠を越える非常に難所でした。このため徐々に四十八坂を越える海辺に沿った道が主に使用されるようになっていきます。
A):馬指野橋、霊堂から轟木、馬指野へと街道は進む。織笠川を馬指野橋で渡ります。
C-1):萩野原一里塚北側、
植林された松林の中の萩野原一里塚の南北では旧道は不明となりますが、松林を外れる少し北側では写真のように旧道跡が林道の西側にみられます。
D):長大な切通し:”赤坂”
一里塚の南側に松林をでると旧道の痕跡があります。そこを登って右折すると深さ約10m、長さ約100mの一つの長根を横断するようにうねうねと曲がる長大な切通しが現れます。縁は崩れてきている部分があるものの手掘りと思います。こうしたかなりの仕事量の建設された遺構はぜひ残ってほしいですね。
E-2):窓坂、沢筋を登って行くと、行き止まりのような地形となる右側に長根を貫くように切り通された”窓坂”があり、ここを通り抜けると西側の沢筋に道筋が変わります。そこをしばし登るといよいよ鯨峠に至ります。
B):鯨山神社、
馬指野地内を舗装された旧道を南下してくると鯨山神社、七滝大明神、多くの石碑が祀られるところを通過します。少し行くと道は未舗装路となり、幅も狭くなります。林道化はしていますが、旧道の趣が残ります。
C-2):萩野原一里塚、林道の西側50-60mの植林された松林の中に旧道の跡を見て取れない状態で対の一里塚が残っています。今の林道とは別に旧道が通っていたことを示しています。
E-1):よく残る旧浜街道鯨道、
このようによくその姿をとどめる部分、また崩壊して沢のガレ場と見分けのつかない部分がありますが、全体として鯨道は萩野原と鯨峠の間はよく保存されています。
F):鯨峠、峠に達するとそこも切通しとなっています。峠の南側は写真のように急な下り坂となり、”二の鯨””一の鯨(辺地ヶ沢峠)というさらに2つの峠を通って大槌に下って行きます。ここが山田と大槌の境です。